リチャードロジャースの活躍

2014年04月17日 | カテゴリー 未分類 | コメントは受け付けていません。 

リチャードロジャースは、ニューヨークのクイーンズ区でユダヤ人外科医の家庭に生まれた。(ロジャーズというWASP風の苗字は、父親がエイブラハムズというユダヤ人の苗字から改姓したもの)。作詞家のローレンツ・ハート、オスカー・ハマースタイン2世とのコンビで数多くのミュージカルの曲を書いた。

特にオスカー・ハマースタイン2世とのコンビでは、34のトニー賞、1つのアカデミー賞を獲得するなどの成果をおさめた。彼が亡くなった晩、ブロードウェイの全ての劇場は、灯りを消して、その死を悼んだ。

なお、エミー賞、グラミー賞、アカデミー賞、トニー賞、ピュリツァー賞をすべて受賞したのは彼とマーヴィン・ハムリッシュの2人しかいない。

あまり知られてはいないが、映画『アラビアのロレンス』の製作者サム・スピーゲルによると、本編の90パーセントの作曲を依頼したものの、リチャードは肝心の作品を見ようともせず、結果、仕上がりはミュージカル調の曲目ばかりで、すべて没となった。そして、本来、残りの10パーセントを引き受けたモーリス・ジャールが、全曲を担当することとなる。



伝統について

2014年04月15日 | カテゴリー 未分類 | コメントは受け付けていません。 

神を主体とする伝統とは、人間の生存上に必要な理性や宿命の理解への拠り所として、または、人類や地球の起源を司る存在として、「神」を精神的に崇める立場やその信仰の形態が、歴史の中で形成されつつ次世代に伝承されて行く、その一連の歴史的な形態を指す。古来、人類の歴史には、世界各地に於いて、神を主体とする伝統によって形成された、種々の伝統文化や生活様式があるが、それらは、経済主義社会の台頭や過剰開発による破壊を受け、地域主体の伝統・文化の衰退と共に、その存続が危惧されている面もある。一方、神の伝承が政治権力によって利用されて来た歴史もある。その代表的な事例として、主に第二次世界大戦以前の日本に於ける「現人神」としての天皇制や、『王権神授説』(ジョン・ロック)における君主制の伝統への言及等がある。



学術都市

2014年04月11日 | カテゴリー 未分類 | コメントは受け付けていません。 

学術都市(がくじゅつとし)とは、研究、学術が産業や文化で大きな役割を果たしていると目される都市を指す。学術研究都市、学研都市とも。

指標のあるものではないが、立地する複数の大学や研究所を街の発展に活かそうとする姿勢の都市、街の発展のために大学や研究所などを積極的に誘致するような姿勢をとる都市、研究学園都市(筑波研究学園都市など)のように国家が中心となり、戦略的に国立大学や研究機関を配置して作られたニュータウンに対して用いることが多い。

日本では、歴史的には京都が文化的中心地であり第一の学術都市であった。日本における20世紀後半以降の計画的な学術都市としては、代表的なものに1960年代以降に進められた筑波研究学園都市(茨城県つくば市)、関西文化学術研究都市、北九州学術研究都市(福岡県北九州市)構想などがある。

似たような言葉として大学都市、大学都市と同義の学園都市という語も存在するが、こちらは大学などの高等教育機関を中心的にとらえたものである。

また、行政などでは文教都市とも称し、街づくりの目標に掲げている都市もある。



ナムコ・ワンダーエッグ

2014年04月08日 | カテゴリー 未分類 | コメントは受け付けていません。 

1992年2月29日、東京・二子玉川(東京都世田谷区玉川1-15)の二子玉川タイムスパーク(二子玉川園跡地)に50ヶ月間の期間限定で開園。日本初のゲームメーカーが運営するテーマパークであった。

1994年7月、隣接地に遊びの錬金術国家たまご帝国を完成。パスポート券導入。

1996年、ワンダーエッグとたまご帝国をナムコ・ワンダーエッグ2としてリニューアルオープン。

1999年4月3日、ナムコ・ワンダーエッグ3としてリニューアルオープン。ワンダーエッグゾーンとたまご帝国ゾーンをゲート出入りせずに行き来できる時空(とき)の橋が開通。新アトラクションファンハウスエクスプレスが追加。

2000年12月31日、閉園。このエリアの再開発の予定により期間限定の開園であったが、不景気のため再開発の着手が遅れていた為、数度の期間延長をしつつも、最終的には閉園した。



三島中洲

2014年04月02日 | カテゴリー 未分類 | コメントは受け付けていません。 

1830年備中国窪屋郡中島村(現岡山県倉敷市中島)に生まれる。1843年、備中松山藩の山田方谷に、1852年からは伊勢国(三重県)津藩の斎藤拙堂に儒学を学んだ。1854年の黒船来航の際は江戸に出向き、危機感を抱いて著した書物が認められ、帰郷すると藩への出仕を勧められた。翌年には再び江戸に上って昌平黌に入り、佐藤一斎や安積艮斎に師事、1859年、故郷に戻り、藩校有終館で陽明学を教えた。中洲は儒学を重要視する一方、技術面では西洋の良いところを取り入れることを献策していたため、尊皇攘夷思想たちには疎んじられていた。明治維新後は政府の大審院判事に取り立てられたが、やがて政府の財政難によって退職し、自宅に漢学塾二松學舍を創設し、二松學舍大学のもとを築いた。



ロバート・ピアリー

2014年04月01日 | カテゴリー 未分類 | コメントは受け付けていません。 

ピアリーらが北極点だとしていた点は正確には北緯89度57分(北極点から約6kmの地点)であったことが分かっている。また、ナビゲーションの技術を持つものがいなかったにも関わらず旅程が不自然に順調であることなどから、到達そのものを疑問視する説もある。

鉄精錬技術を持たないグリーンランドのイヌイット族が鉄を利用している謎がピアリーの調査で判明した。イヌイット族は1万年前に落下したと推測される56トンもの巨大な隕鉄を利用していたのである。ピアリーはこの一部をアメリカへ持ち帰り博物館に4万ドル (5万ドルとも) で売却した。



クリスティアン・ヴォーリン

2014年03月31日 | カテゴリー 未分類 | コメントは受け付けていません。 

ブラックメタルバンド、ディセクションの1stアルバム『The Somberlain』、2ndアルバム『Storm of the Light’s Bane』のアートワークを担当。後者の、雪に覆われたツンドラの中で馬に乗った死神の図像は特に名高い。ノルウェーのブラックメタルバンド、エンペラーのデビュー作『In the Nightside Eclipse』もまた、ヴォーリンによるジャケットが高く評価されるアルバムである。

これらの作品を嚆矢に、ヴォーリンはアルバム・アーティストとしての活躍を続け、ヨーロッパのデスメタル、ブラックメタル、ドゥームメタル、パワーメタル、ゴシックメタルなど、2000年代を通じて数多くのバンドのアルバムのアートワークを手がけた。



アレクサンドル・アレヒン

2014年03月28日 | カテゴリー 未分類 | コメントは受け付けていません。 

モスクワの裕福な家庭に生まれた。父親は地主でドゥーマの一員だった。1914年サンクトペテルブルク大会で3位に入り、他の入賞者4人とともにグランドマスターの称号を贈られた。ロシア革命後、結婚を機にフランスに、のちドイツに移住した。

同じ1927年にキューバのホセ・ラウル・カパブランカに挑戦、マッチに勝利して世界チャンピオンとなった。この時の契約にはチャンピオンのリターンマッチの権利が定められていたが、アレヒンはカパブランカとの再戦を避け続け、1929年と1934年にエフィム・ボゴリュボフを相手にチャンピオンを防衛した。



妖怪

2014年03月26日 | カテゴリー 未分類 | コメントは受け付けていません。 

日本の集落や家屋にみられる、自然との境界の曖昧さによる畏怖や、里山や鎮守の森のように自然と共にある生活が畏敬や感謝になり、当時では解明できない自然現象・物や人に対しての畏怖など妖怪は、これらの怖れや禍福をもたらす存在として具現化されたものである。「神さび」という言葉に代表されるように、古いものや老いたものは、それだけで神聖であり神々しいとされてきた価値観も、妖怪(九十九神)が古い物や長く生きた物の憑き物という解釈と重なる。

そして、現在では妖怪の存在の実証はされておらず、科学が未発達だった時代の呪術的思考の産物や迷信とされるが、日本人の心や思考のあり方を表す一つの事柄でもある。



ドイッチュラント級装甲艦

2014年03月25日 | カテゴリー 未分類 | コメントは受け付けていません。 

第一次世界大戦の敗戦により、ドイツにはヴェルサイユ条約下で軍備制限が課せられた。戦闘艦の新造も制限され、旧式戦艦の代艦に限って、1921年以降「基準排水量1万トン以下で主砲口径も28cmまで」の“装甲を施した軍艦”の建造が認められたことにより本級はその制限枠一杯を利用している。本級の分類に当たり、ドイツ海軍は戦艦などと称して他国の疑念を招かないように、ヴェルサイユ条約の条文の仏語記載にある”Cuirassé”(装甲艦)を独語訳した”Panzerschiff”と類別し、新しい艦種として建造した。

しかしながら上述の通り、英国のマスコミは本級をポケット戦艦と呼称した。しかし実態としては、火力はともかく、防御力は重巡洋艦並み、速度はそれ以下といえる程度の艦型であった。1934年予算で承認されたドイッチュラント級4番艦は、防御力を十分なものに強化した結果,19,000トンにまで拡大してしまった(結局は火力・速力も強化した、より大型のシャルンホルスト級巡洋戦艦として実現)。ドイツ海軍は1939年にPanzerschiffを”Großer Kreuzer”(大巡洋艦:ドイツ特有の艦種で、他国で言う重巡・巡洋戦艦のこと)へと艦種変更した。



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